■ 来年(令和7年4月)は、4年に1度の中学校教科書改訂があります。
当塾も難しくなった教科書改訂内容に対応していくため4年間は週6回でやってきましたが、来年4月からは「月、火、木、金、土」の週5回に変更する予定です。
「自分が決めた高校、自分が入りたい高校」を受ける!
- 令和3年3月16日発表、
- 志望校を下げずに、自分が1番行きたい高校に向けて頑張ってきた受験生たち、、、全員公立高校合格
- 令和4年3月16日発表、
- 志望校を下げずに、自分が1番行きたい高校に向けて頑張ってきた受験生たち、、、全員第1志望校に合格
- 令和5年3月16日発表、
- 子どもたちの受験した結果の点数は私たちが予想していた合計点数より40~50点高い点数で合格!
- 令和6年3月14日発表、
- 志望校を下げずに、自分が1番行きたい高校に向けて頑張ってきた受験生たち、、、全員第1志望校、公立高校全員合格
心に残る言葉
- 「最後まで見捨てずに支えて頂きホントに感謝しかありません」
→令和6年利府高校合格 - 「お兄ちゃんと同じ塩釜高校でダンスがやりたい、って言うんです。これからでは遅いですよね」
- →令和6年塩釜高校普通科合格(中3の9月に入塾、模試D判定からの出発)
- 「塾がない日は、早く塾に行きたい、とよく言っていました」
- →令和6年多賀城高校合格 東北学院合格
- 「前の塾は頭がよくなる塾ではなく、もともと頭のいい人が通っていた塾だったんです。習っている教科の点数が下がってきたのに、やめさせてもらえず、大変でした」「国語がずっと悪かったのに、できるようになるんですね」
- →令和6年塩釜高校合格(中3の7月に入塾、公立高校入試の国語79点)
- (入会時)「国語も悪いので、国語も教えてもらえるからよかったです」
- →令和5年名取高校合格(中2の4月に入塾、公立高校入試の国語80点)
- 「聖和学園のすぐ近くに引っ越すので、できれば特進で合格できればよいのですが」
- →令和5年聖和学園特進アドバンス合格
- 「友達3人で同じ高校に行こうって言っていたんですけど、点数が伸びなかったからって、友達二人は志望校を変更しました〈1月)。だから、中学校からは、私一人だけです」「苦手な社会が97点(公立高校入試)でした!嬉しかったです!」
- →令和5年宮城第一高校合格
- 「おれ、絶対多賀城に行きます!」「思っていたより問題解けました!」
- →令和4年多賀城高校合格
- 「資格をたくさんとりたいから仙台商業に変更しました!」
- →令和4年仙台商業高校合格(中3の8月入会)(高校では一桁順位を維持)
- 「一番苦手だった英語が91点(公立高校入試)でした」
- →令和4年仙台第三高校(中3の5月入塾)
- 「女子の一期生になりたいんです。公立高校は考えていません!」
- →令和4年東北学院高校合格
- 令和3年は、塩釜高校4名、仙台市工業高校3名と同じ高校への受験が複数人いました。全員合格。
- 「こんなに近くに塾があるのに教えてもらうまでわかりませんでした。」「一番苦手だった社会が93点(公立高校入試)で驚いたんです。」
- →令和3年多賀城高校合格(中3の8月入塾)
- 「前の塾は1ヶ月でやめました。友達のお母さんから僕のお母さんが聞いて塾を知ったんです」「僕は塩釜高校に行きたいんです、受かりますか」
- →令和3年塩釜高校合格・・・東北学院大学入学
- 「将来、設計図を書く仕事をしてみたいんです」
- →令和3年仙台市工業高校建築科合格
- 「息子が市工に絶対行きたいと言うんです。この塾は行きたい高校を受験させてくれるとHPに書いてあったので」
- →令和3年仙台市工業高校合格(中3の10月入塾)・・・「ここに来ていなかったら、人生違っていました」(仙台市役所勤務)
- 「もっと早く先生の塾に通ってたかったなあ、と最後の塾の日に車の中で言っていました。中学校からは、ほかの高校を考えなさいと言われたけど、先生を信じて受験してよかったです」
- →平成30年松島高校合格(中3の10月入塾)
- 「近くの塾で英語と数学の夏期講習を受けたのですが、夏休み明け実力テストで下がっていました。英語と数学は点数が悪いから、英数は捨てて理科と社会で点数をとれるようにしたほうがいいと言われたんです。」「5教科の点数が上がったので、友人の紹介でここに来てよかったです」
- →平成30年塩釜高校合格(中3の10月入塾)(高校では一桁順位を維持)
- 「先生、受験の日に高校まで親に送ってもらいました。高校に着く前に、お母さんに、送り迎えとかたくさん自分のためにありがとうって言ったら一番頑張ったのはあなただよ、お母さんこそありがとうって、言ってくれました。少し恥ずかしかったけど、嬉しかったです。」
- →令和元年東北生活文化大学高合格(第一志望校)
- 「塾に入って、苦手だった英語が好きになりました」
- →平成30年仙台東高校合格(公立高校入試英語97点)・・・薬科大病院勤務(国家試験合格)
- 「B判定は一度しか出なかったのに、今まで模試ではとったことがない一番よい点数で合格してました」
- →平成29年多賀城高校合格・・・宇都宮大学合格
- 「三桜高校で大きな紙に書くパフォーマンスをする書道部にどうしても入りたい!」
- →平成28年三桜高校合格
- 「多賀城を目標にしていますが、本当は近くの宮城野高校に行きたいと・・・今の塾では無理だから多賀城を受けなさい、と言われたので、宮城野高校は受けさせてもらえないと思います、こちらで教えてもらえないでしょうか。」
- →平成27年宮城野高校合格・・・東北電力勤務
- 「二人(双子)で同じ高校に合格すれば、入学式も卒業式も一緒に見れるから、親としては二人とも同じところに入学してもらいたいんですが。」
- →平成21年仙台第三高校に二人とも合格・・・二人とも岩手大学に合格
- 「息子がどうしても行きたい塩釜高校がもしだめだったら、うちは就職になります。それでも本人は納得しているので、よろしくお願いいたします。」(利府からいつも自転車で通っていました)
- →平成19年塩釜高校合格
- 「先生、俺もこいつと同じ塩釜高校で野球したいから、塩釜高校に行きたい」
- →平成19年塩釜高校合格(同じく友達と利府から自転車で通っていました)
- 「姉と同じ宮城広瀬に妹も合格させてください。」
- →平成18年宮城広瀬高校合格
- 「先生、おれ、絶対高専に行きたいんですけど、無理ですか。」中2入会時の実力テスト国80/数65/英44/理86/社60
- →平成18年電波高専(仙台高専)合格
- (面談で子どもを説得する両親、その後)「妹もいるので公立高校に行ってほしいのですが、学校の先生に絶対無理だと言われても多賀城高校以外は受けないと言うので、親はあきらめました。私立でも仕方がないです。よろしくお願いします」(2月最後の面談/中3の7月に入塾)
- →平成17年多賀城高校合格・・・東北大学病院勤務
- 「自宅は名取ですが、高速で通うので大丈夫です。全く勉強しなかった娘がやる気になったので、親も頑張って週3回送り迎えします。」
- →平成18年宮城農業高校合格
- 「誰の言うことも聞かず、仙台西以外は受けない、絶対そこじゃなきゃ受けない、落ちたら働きながら夜間高校に通うと娘が言っていたときは、本当に困りました。娘は先生を本当に信頼していました」
- →平成20年仙台西高校合格
- 兄(多賀城高校合格)が卒業。(妹が入塾申込の時)「どこに入りたいの?」と聞くと、「宮城野高校の美術科に」と妹がはっきりと答える。母が隣で「何バカなこと言ってるの!恥ずかしいでしょ。すみません、行けるところに」と言い直しをする。
- →平成20年宮城野高校美術科合格
- 「突然、本人が志望校を宮城工業高校に変えたので、みんな反対しているんです。すぐ下に弟がいるので、私立には行かせられません。絶対無理なので、先生、娘を説得して頂けませんか」
- →平成20年宮城県工業高校合格
- 「交通費のかからない近くの公立の塩釜女子高(塩釜高校)に妹も合格したら家を建てる予定です」(姉も塩釜女子高合格)
- →平成9年塩釜女子高合格
- 初対面、「絶対多賀城高校に行きたいんです!先生、私を合格させてください!」
- 平成7年多賀城高校合格
- 「俺、絶対こいつと受かりたい、俺が市工、こいつは県工だから」(いとこ同士)
- 平成6年仙台市工業高合格、宮城県工業高合格、
- 「あまり友達に馴染むことができないこともあり、何か手に職をつけられる学校に行かせたいのですが」
- →平成21年仙台高専合格
「近くにできた宮城野高校の1期生になりたいから、宮城野高校に行きたいです」 - →平成10年宮城野高校合格
「受験生、1人残らず全員が全力で取り組む塾」
- 上記の記載内容は、書き残したメモや記録をそのままランダムに書き出しております。まだまだご紹介したい感動はたくさんあるのですが、書ききれません。。
卒業生がHPを開いたら、「これ自分のことだ!」と昔の自分を見つけてくれることでしょう。 - すべての記録は、不可能を可能にしてきた「子どもたちの奇跡」です。
- 平成4年4月に塾をスタートさせてから第一志望校不合格、公立高校不合格がほとんどいません。
当塾には、受験生専用席があり、中学1年と2年は常に受験生の姿を見ています。
受験生が卒業すると、「先生いつから席を移動するんですか?」と何人かの中学2年生が聞いてきます。合格発表日が過ぎて、中学2年生の座席移動を行うと、受験生のバトンを受け取ったような一人一人がしっかりした顔つきになります。
大学時代に家庭教師のバイトをしており、銀行に就職が決まっても高校受験までは、、、と子どもたちに勉強を教えていました。- そのとき教えていた一人の男の子が「先生、俺でも勉強がわかるようになった。先生は、塾の先生をしたらいいと思う。」そう言ったのです。漫画に書けば、まさに、雷に打たれたような衝撃一コマです。
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自分は、子どもたちのために何かできることがある。
- その翌月、銀行に依願退職を出して、「宮城共育研究所」(旧 know-how学習塾)はスタートしました。